今回の記事では、非認知能力はどうやって獲得・向上することができるねん!ということについて書いていくと書きましたが、「これをしたらいい!」という正解のようなものはないと思います。
一応、大学生の時分に調べたことによると、「スポーツを行っている子どもは外向性と勤勉性が獲得され、特にリーダーのポジションを任せられている子どもはより高くなることが示された。」という例がありました。それなら、スポーツをさせてリーダーになることが非認知能力を上げる方法なのか!と思いきや、同じ人の研究で「個人で行う文化系活動(将棋や書道など)は非神経症傾向(情緒安定性)と開放性を促す」と別の非認知能力の獲得・向上に影響を及ぼしていると発表されています。
さらには、家庭環境もとても大切なようで、父親が新聞を読むか否かで非認知能力の獲得に影響を及ぼしているという発表もあるくらいなので、もはや子どもたちが育つ環境すべてが子どもの非認知能力の獲得・向上に起因していると思われます。
しかしこういったことを調べて思うことは、「非認知能力を獲得・向上させようさせようということにこだわって子どもたちと接していくのは本当に子どものためになるのか?」ということです。
僕が、「子どもたちには外向性がないから、全員で公園に行ってサッカーをさせよう!」と思ったとします。子どもたちに外向性を身に着けてもらいたいから、子どもたちにはチームスポーツの良さを伝え、サッカーを望んでやる子どもは褒め、やりたがらない子どもは「みんなやってるんやから、やるで!」と声をかけたり、やりたくない子も参加するようにしたり、子どもたちをサッカーに向かわせるために工夫するでしょう。
僕はこのやり方が、自分の人生をいきいきと歩んでいける子を育てることに繋がるのかとはどうしても思いません。誰かの思っている通りに動くことが良いことで、自分の在りたい姿を隠して生きていく人になるのではないかと思うからです。
ですので、「こんな能力をのばしてやろう!」と思うのは非認知能力に限らず、危険な感じがします。「~させてやろう。」ということは、させたいこちら側としたくない相手側の勝負の世界になってしまいます。もちろん、命にかかわることや重大な事故につながってしまう場合には、子どもたちに理解させることもあるとは思いますが。
以前、友達や人にやさしく接し、みんなが対等に付き合っている子どもたちに出会ったことがあります。自分と目の前にいる人を大切に思い、尊重し合いながら遊んでいる姿を見て、すごく感動したことを覚えています。まだ、小学校低学年の年代の子たちでした。スタッフの方と話したときに、決して能力の有無で子どもたちを見ているのではなく、ありのままの子どもたちを大切にしているということを感じました。
そして、結果的にみるとその場で育った子どもたちは、非認知能力は凄く高かったと思います。きっと、日々の活動や友達との関係をスタッフの人や周囲の人に大切に扱ってもらうことで少しづつ自然と身に着けていったのだと思われます。
自分自身を温かく認められ、自分の人生を歩き出した子どもは、必要な能力を身に着け、自然と人と調和してよりよく生きていくことができるんだろうなと思います。
上村
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